対義語についての考察

フロイトと言語学

精神分析の創始者と言われるフロイトですが、
彼は言語の研究も相当深く行っていたようです。

「言葉」は「心理」を反映するものですから
言語を研究することで見えてくる精神分析上の知見は
彼にとって相当価値のあるものだったのではないかと思います。

精神科医として、患者の発する言葉の
端々に隠された心理上の要因を見つけていく事は、
治療をしていく上で欠かせない能力だからです。

フロイトは言語の研究、特に古代語を調べていくうちに、
面白い事を発見しました。

古代エジプト語の不思議

古代エジプト語では対義語を1つの言葉で
表現するような単語がいくつもあるらしいのです。

「対義語」とは「反対の意味」を持つ言葉の組です。
例えば、

「弱い」 ⇔ 「強い」

「静か」 ⇔ 「うるさい」

「明るい」 ⇔ 「暗い」

といったもの。

古代エジプト語では同時に「強い」と「弱い」
を意味するような言葉があるらしいのです。

現代語でも、1つの言葉が複数の
意味を持つ事は全然珍しくありません。

例えば、supportという単語。

その基本的意味は「支える」というものです。

The roof is supported by pillars.
屋根は柱で支えられている。

He supported his argument with solid fatcts.
彼はしっかりとした事実で自分の主張を支えた。

前者では、supportがその本来の物理的な意味で使われています。

後者では、「支える」という同じ訳語になっていますが、
その意味するところは厳密には前者とは違います。

後者では「支え」られているのは「主張」という
抽象物であり、supportの意味は物理的なものではありません。

要するに第二の文ではsupportが比喩的な意味で使われています。

物理的な意味で何かを支える事と、
主張などを事実によって裏付ける事は、
一見すると全く違っているように見えます。

しかし、そこに「類似性」を見いだすからこそ、
「支える」という言葉が、時には物理的な意味で、
時には比喩的な意味で使われるのです。

このように、言葉には「イメージ」があり、
そのイメージが保たれる時、
「比喩」によって抽象的な使い方もできるわけです。

これが1つの語を複数の意味に使うとき
一般に起こる事です。

では、古代エジプト語の話に戻りましょう。

そこでは一つの言葉で真逆の概念を意味する事ができたのでした。

一つの言葉が

「強い」と「弱い」

の意味を持つ。

普通の感覚からすると、「あり得ない」事のように思えます。

時がたつにすれ、こうした対義語を結合したような言葉は徐々に
分裂して別々の言葉になって行ったそうです。

なぜ、古代エジプト語では対義語を一つの言葉で意味していたのか。

フロイトの考察を含め、その理由について
想像を膨らませてみたいと思います。

この世の全ては「比較」なのか?

もしこの世界に「光」しか無かったとしたら、
人は「闇」を理解できなかったのではないでしょうか。

同様に、もし「強い人」しかいなかったら、
「弱い人」という概念はありえなかったと思います。

もし「善人」しかいなかったら、
「悪人」という言葉さえ無かったのではないでしょうか。

つまり、あらゆる概念はその反対概念があるからこそ
存在するのではないでしょうか。

現代人は対照的なものを「対極」にあるものと捉えます。

強い   ⇔ 弱い
美しい  ⇔ 醜い
年老いた ⇔ 若い

このように「対極にあるものの組」をいくつも作れますよね。

それぞれの組は「同じ軸」の上にあるもの、
としてイメージすることができます。

例えば、「強さ」の軸では

「すごく弱い」と「すごく強い」
が両極端にあり、中間には強くも弱くもない「普通」があります。

そしtてこの軸上に「やや弱い」等の無限い細かい段階があります。

同じ事が全ての「対義語の組」で成り立ちます。

「美しさ」の軸
「年齢」の軸

を考える事ができるわけです。

もし古代人が「軸」のイメージしか
持っていないとしたら、どうでしょうか。

ちょっと想像するのが難しいのですが、、、

人が言葉を使い始めた本当に初期の段階では、
「程度」よりも「どの軸の話なのか」を
先に決める方が優先されたのかもしれません。

今問題になっているのが「強弱」なのか「美醜」なのか。

そういった「軸」を先に認識することが優先され、
「どの程度」強いのか弱いのかっといった
「程度」の問題はその次だったのではないか、とういう事です。

人類が言葉を使い始めた本当に初期の段階であれば、
こうした「大雑把」な枠組みから言語を
作り出して行った可能性はあるかもしれません。

勿論、断定はしません。(言語の専門家ではありませんので。)

フロイドが引用しているAdelという人によると、
「古代においては対義語は1つであった」という事実は、
近代語にもその「痕跡」をとどめているとの事。

例えば、英語でwithoutは「~なしで」という意味ですが、
ここにwith「~を伴って」という反対の意味を持つ言葉が入っています。

英語もその原初の段階では

「あること」

「無いこと」

を区別していなかったという事なのでしょうか?

さらにwithを含んではいますが、
withとは,どちらかと言えば逆の意味を持つ
動詞があります。

withhold 与えない
withdraw 退かせる, 撤回する

ドイツ語では「唖」を意味する

stumm

と「声」を意味する

Stimme

が似ています。

単なる偶然かも知れませんが、
このような例は、様々な言語で数多く見つかるとの事。

こういった言葉がどのように成立していったのか、
私は詳しい事は分かりません。

専門家の意見を是非お聞きしたいなあ、と思っています。

まとめ~対立物は本当に「遠い」のか?~

太宰治の「人間失格」という小説で
「対義語ゲーム」という場面があります。

主人公と彼の友人が、
順番に対義語を作り出していくというもの。

例えば「蝶」の対義語は「最も蝶でないもの」になります。

その答えは「胃」でした。

同じようにして、「天使の対義語は悪魔になる」
といった具合にゲームは進みます。

そして主人公は「罪」の対義語が果たして何かという
哲学的な問いに直面することになるのですが。。。

興味のある人は「人間失格」を読んでみて下さい。笑

本題に戻りますと、通常「対極」にある概念は
実は案外近しい関係を持っている場合もあると思うのです。

愛の反対は憎しみという意見もありますが
愛は一瞬で憎しみに変わることもありますので。

それ故、”愛の反対は憎しみではなく
「無関心」である”、と言った人もいました。

こちらの方が実情に近いと言えるかもしれません。

また、快楽の反対が苦痛かというと、
これもけっこう考えさせられるテーマではないでしょうか。

例えば、何か大きな目標を達成する時に生じる苦労、苦痛は
目標が達成された時の喜びに比例しています。

案外、苦痛と快楽もけっこう近い関係にあるのかもしれません。

人が言語を話すようになったプロセスを
完全に解明する事は不可能に近いと思います。

しかし、これはあくまでも「想像」なのですが、
もしかしたら太古の人間は「反対概念の区別」を
ハッキリしていなかったのかもしれません。

今回のテーマは、言語と思考の関係を
「対義語」という切り口でいろいろと
探ってみました。

その主張はすべて「想像」でしかありません。

ただ「可能性」としては、
けっこう面白いと思いましたの記事にした次第です。

感想や反対意見など、是非お気軽にお送り下さい。