序論

英語など外国語を学ぶと、
ふと不思議に思うことがあります。

思考と言語は一体どういう関係を持っているのだろう

日本人として、日本語という母語を使っている間は、
このような問をあえてしてみる気にはならないかもしれません。

明らかに、思考と言語は深く結びついています。

例えば、今、私は自分の思考をこうして文字にしているわけですが、

思考が先にあるのか、言葉が先にあるのか

と、注意深く考えてみないと、両者の違いには気が付かない程です。

外国語(英語でなくても)を学ぶと、
「言語と思考」という問題が、
よりはっきりと認識されるのではないかと思うのです。

というのも、英語という、全く日本語とは異なるロジックを持つ言語でも、
人間の思考と感情を表現できてしまうのですから。

今回は、「関係代名詞」とか「不定詞」などの
個別の文法事項ではなく、

「言語と思考」

というテーマで、私の考えをお話していきたいと思います。

興味があれば、是非お付き合い下さい。

動物は思考しているのか

「言語と思考の間にどのような関係があるのか」

これは非常に深いテーマだと思うのですが、ここでは
次の単純な仮定をして、議論を進めていきたいと思います。

思考と言語は密接に結びついているが、両者は別物である。」

”一体この人は何を言ってるんだろう?”

という心の声が聞こえて来そうなので、
少し説明させて下さい。

私達は、考えたことを即座に言葉にしたり、
文字として書き残すために、

思考 = 言葉

という感覚を持っているかもしれません。

しかし、思考と言葉は明らかに、深くつながってはいるのですが、
それらが全く同じものと言えるでしょうか?

そのために、動物の世界を観察すれば、
何かヒントが得られるかもしれません。

私は何年か前、何かの書物で象の行動について、
おもしろい記述を読んだことがあります。

(確か外国の本だったと思うのですが、
詳しい事は忘れてしまいました。)

著者が、インドあたりに旅行していた時のこと、
象の群れの行進にでくわしました。

すると、一匹の象が吊橋の前に来ました。

はじめその象は、吊橋を渡ろうとして、
片足を踏み込もうとしたのですが、

吊橋の強度を直感的に判断し、
渡るのを止めた、ということです。

このことから、象に一種の思考能力がある、
ということが分かるのではないでしょうか。

あるいは「想像力」と言ってもいいのですが。

つまり、この象は、自分の体重と、
片足で吊橋を押してみたときの感覚を考慮し、

吊橋を渡る = 危険

という判断をしたのです。

(象もつり橋を叩いて渡るということです。 笑)

象は(おそらく)言葉を持たないので、
この象は、「吊橋の危険」に関する情報を、
仲間の象に伝えることはできなかったかもしれません。

しかし、もし象にも言葉があるとすれば、
やはりこの象も、”象語”の文法と単語に従って、
思考の言語化を試みたことでしょう。

「吊橋の危険」の情報を共有することは、
象の群れ全体の利益でしょうから。

このように、

「動物は言葉を話さないが、彼らなりの思考能力を持つ」

ということは、

思考が言語と密接につながってはいるけども、
同一のものではない

という事を示していると思うのです。

そして、動物も、種族によってユニークな仕方で
コミュニケーションをとっています。

ミツバチのダンス

クジラの鳴き声

アリのホルモン

これらは、動物にとって必要な情報を伝える手段で、
言語ではありませんが、やはりコミュニケーションの一種です。

そして、人間が特別なのは、
まず、人間が言語を操る種族だということ。

そして、周知のように人間の扱う言語は一つではありません。
現在使われているものでも、6千以上あるとのこと。

つまり、人間は、こんなにもたくさんの言語を使って
思考を表現できてしまうのです。

しかしながら、人間の思考の「様式」は、
言語、文化によらず一定です。

実際、どの外国語でも母語に翻訳されれば、
理解できるし、論理がおかしなところがあれば指摘できます。

これは、人類が、どの言語を話そうとも
共通の論理で思考しているからです。

「1つの思考」を多用な言語で伝えられてしまう。

すごいと思いませんか?

”言葉を話せる”ということの解明

人間であれば、どの言語を使っているかに関わりなく、
共通の様式で思考している。

この事実から、もし言語と思考の関係を解明できれば、
外国語を学ぶ際の指針を得ることができそうです。

私達は、母語である日本語を空気のごとく
自然に話していますが、

「話す」とか「書く」という事は、言い換えると、
思考を言語化する、ということです。

そして、思考は、それ自体では、
形のないものなのですが、

それが、言語という「型」に入ることで、
他者に伝達できるようになります。

日本語であれ、英語であれ、中国語であれ、
言語とは、思考を入れて、
コミュニケーションを可能にする

型のようなもの

だと言えます。

日本人にとっては、日本語という「型」でのコミュニケーション
は、幼少時より行っている為、ごく自然なものになっています。

新しい外国語を習うとき、それが難しいと感じるのは
その「型」にうまく思考を入れる事ができないからで、

また、他人が思考を入れたもの(つまり外国語の文章や音声)
を受け取ったとき、上手く元の思考を再現できないからです。

逆に、もし自分の思考を外国語の「型」に入れて
表現することができ、

他者の思考を外国語の「型」で受け取ることができれば、
その状態がすなわち

その外国語を高いレベルで使えている

ということになります。

つまり、普段日本語で行っている

思考 ← → 日本語

という変換を、英語で行うということ。

つまり、

思考 ← → 英語

という状態を目指して行こう、という事です。

ただ、多くの英語学習者は、おそらく、初期の段階では、
思考と言語の変換というプロセスにおいて、

日本語を介在させている

のではないでしょうか。

つまり、

思考 ← → 日本語 ← → 英語

という図式です。

これは、英語を理解するために、日本語の助けを
借りている状態です。

「この文はこの文型に当てはまって、単語の意味はこうだから。。。」

というふうに、文法と単語を調べつつ、
英語を日本語になおして理解していくわけです。

この手法の限界は、まず、
複雑な文になるほど、日本語の型にはまらなくなってしまうということ。

そして、日本語への変換をしていくたびに、
精神のエネルギーが消耗されるということです。

できれば、英語は英語の世界の中で、
全てを処理したほうが、

脳のエネルギー

という観点からも、良いに決まっています。

では、どうすれば、日本語を介さずに、
英語を理解していけるのか、という事ですが、

どんな能力もそれを使うことで発達する

という原則が、はやり語学にも当てはまると思うのです。

”多くの英語に接し、英語の世界で
言語と思考の変換をしていく。”

これが、語学の王道ではないでしょうか。

つまり、はじめは日本語の助けを借りつつも、
徐々に理解できる英語の質と量を高めていくことです。

そして、徐々に、日本語の助けを借りずとも、
英語から思考を直接受け取るようにすること。

また自分の思考も、直接英語にしていくことです。

といっても私は、

「日本語を疎かにしてもよい」

とか、

「国語を軽んじる」

という考えはありません。

そうではなく、「日本語の世界」と「英語の世界」を
2つとも充実させていきたいと思っています。

この道のりは、決して「楽」ではないと思いますが、
その努力は決して無駄になることはないでしょう。

今回は以上になります。

参考にしていただければ幸いです。